トップページ > 豊臣秀長について
豊臣秀長は戦国時代に活躍した武将で、豊臣秀吉の弟です。
1540(天文9)年、兄・秀吉と同じく尾張国に生まれた秀長は、高い軍事能力と経営管理能力をもって諸大名と秀吉をとりなす豊臣政権のかなめとなり、従二位・権大納言に任じられ、また大和郡山を領地として与えられて「大和大納言」と称される大大名となりました。しかし、兄・秀吉による天下統一を目前にしながら、病のため数え52歳で没しました。
尾張国中村で出生。
幼名小一郎
兄・木下秀吉とともに織田家に仕える。
「木下小一郎長秀」と名乗る。
織田信長による美濃攻略。
稲葉山城を岐阜城と改称し、居城とする。
兄・秀吉、上洛戦に参加。
長秀(秀長)も参加か。
織田信長、上洛
室町幕府 滅亡
兄・秀吉、苗字を「木下」から「羽柴」に改め、
「羽柴藤吉郎秀吉」と名乗る。
兄・秀吉、長浜城主となる。
「木下長秀」名が初めて文献に現れる。
兄・秀吉、「筑前守」を賜る長秀(秀長)、
兄より「羽柴」の苗字を与えられ、
「羽柴長秀」と名乗る秀吉の一門としての
立場が明確になる。
兄・秀吉、中国地方攻略の総司令官に。
長秀(秀長)、兄に従い播磨竹田城攻略。
竹田城代となり竹田領を経営。
織田信長、中国攻め
長秀(秀長)、但馬・播磨10万5,000石を賜る。
兄・秀吉の毛利攻めに従い、備中高松城。
包囲(水攻め)に長秀(秀長)参加。
本能寺の変を受けて兄・秀吉、
京へ「中国大返し」と呼ばれる大帰還。
本能寺の変後の山崎合戦に長秀(秀長)も参戦。
6月、本能寺の変
織田信長自刃
兄・秀吉、柴田勝家に勝利。
織田政権の筆頭家臣の地位を固める。
長秀(秀長)、「美濃守」を賜る。
賤ケ岳の戦い
長秀(秀長)、兄に従い伊勢攻略。
織田信雄単独講和の仲介役となる。
この頃「羽柴秀長」に改名。
兄・秀吉、織田信雄・徳川家康と和睦。
織田家と主従を逆転させる。
小牧・長久手の戦い
秀長、紀伊攻めの功により但馬・播磨両国にかわり紀伊・和泉国64万石を賜る。
秀長、四国攻めで秀吉の名代となり、長宗我部元親を下す。
兄・秀吉、従一位関白・太政大臣に昇る。
「豊臣」氏姓を賜り、兄・秀吉とともに秀長も「豊臣」氏となる。
秀長、四国攻めの功績により大和・紀伊両国に和泉国を賜り、羽柴一門衆筆頭の宰相となる。以降、「羽柴大和大納言」と称される。
和泉・紀伊攻め
四国攻め
大坂・秀長屋敷を徳川家康の宿所とし、
秀吉が酒宴を催す。
翌日、大坂城にて家康が秀吉に臣従を誓う。
徳川家康、秀吉に臣従
秀長、九州攻めで総大将の兄・秀吉に次ぐ先手大将として参陣、島津義久の降伏交渉に携わる。
秀長、徳川家康とともに従二位権大納言に昇る。
九州攻め
北野大茶会
秀長の臣である吉川平介による材木不正売買が発覚。兄・秀吉の勘気を被る。
後陽成天皇の聚楽第行幸
秀長、病床にあり従軍せず。
小田原攻め
徳川家康、関東へ移封
関東・奥羽平定
正月二十二日、秀長死去。
家督は甥で養嗣子の羽柴秀保が相続。
羽柴秀保、病死。
羽柴大和大納言家断絶。

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